皆と議論したり助け合ったりしながら、
成長してほしい
名著を読んで「罪と罰」への関心を深める
中学生の時に背伸びをしてみたくてドストエフスキーの「罪と罰」を読み、「罪と罰は何のためにあるのだろう」と考えさせられたことが現在刑法を研究する梅崎先生の原点だという。主人公は自身の信念を貫こうとする過程で、当初殺すつもりでなかった1人を含め、2人の人間を殺してしまう。初めは自らの正しいと信じることのために動いたつもりだったが、その後罪の重さに耐えきれず精神的に不安定になり、やがて自首し服役する。
このように、法律に罪として定められているかどうかにかかわらず、「人を殺すことは罪だ」という感情のように、人種や文化を越えて認識される「悪」が存在しうるものだ、と感じ、それから、「罪」と「罰」とは何か、そしてそれを専門に法律として扱う刑法の分野にも関心を寄せるようになったという。
「罪を償い、償わせる」ことの意義とは?
「例えば、5人で無人島に流れ着き、そのうち1人が喧嘩で重傷を負ったとします。その中でもし報復や闘争を許すと、さらに動ける人が減ることになる。しかし、その島で生きるためにはこれからも5人で協力していかなくてはいけません。そんな場合、傷害事件の解決のためには、加害者に、贖罪(しょくざい=罪を償うこと) させるための一定の不利益を科したうえで、社会的に『赦(ゆる)す』制度が必要となるでしょう。刑法という制度は、寄り添わなければ生きていけない社会的存在である人間が、お互いを尊重しつつ共生を維持するために導き出した知恵なのです」と梅崎先生。それは現在の社会の中でも同様だという。何か罪を犯した人間を「悪い奴」と片付けず、犯した罪と、罪を犯した人を理解し、くみ取る姿勢を持つことで、人と手を取り合って生きていくことができるだろう、と話す。刑罰の多くは、ある一定の不利益を課されても、また社会に戻れるようにしている。冒頭のカツオくんの例でもあったように、刑罰は、贖罪させることで赦しを与え、罪の意識を軽減して、罪を犯した人を救うものでもあるはずです。
「なぜそれを禁じるか」を考える
そう語る梅崎先生の専門のひとつが、正式な手続きを経て六法全書に書かれている法律の条文だけでなく、なぜ、法律でそれを禁じるのか、を考察する「法益論」という分野だ。例えば、どんなにブラックな校則も、「決まりは決まりだ」というだけでなく、文章には書かれていない、何が悪くて禁止されているのか、を考えることが必要だという。刑法の世界には、どのような行為が犯罪になり、どのような刑罰が科せられるかは、法律で決められなければならない、という「罪刑法定原理」がある。自由を保障するためには、「禁止内容」を明確にすることも大切であるが、法に書かれているから、ではなく、なぜその行為が禁止されているのかという「禁止理由」を考察することもとても大切なことで、刑法の世界では、この点を支えるものとして「侵害なければ犯罪なし」という「侵害原理」が確立されているという。
考えて、解決する力を身につけるゼミ、授業
梅崎先生の部屋には、これまで指導したゼミメンバーの文集や、寄せ書き入りのギター、色紙などが並んでおり、学生に慕われていることがよくわかる。ゼミでは、「自分で考えて、解決する」ことを大切にしており、「自分で」と言っても、一人で、という意味ではない、と強調する。皆と議論したり助け合ったりしながら、成長してほしいと考えている。実際にあった事件などをもとにした事例を出題し、検察側と弁護側に分かれて、その問題をどう条文に当てはめ、解決にどう導くかを議論する。論点を丁寧に整理し、ヒントも出しながら、何を調べる必要があるのかを見つけられる力を身につけてもらうことを目指す。事例も学生が興味をもちやすいように当事者の名前を人気アニメのキャラクター名にするなど、細かい工夫を忘れない。ゼミのモットーは、「みんなで仲良く、無理なく、楽しく」。
授業でも、学説や判例を覚えることだけでなく、社会上の知識も広げ、現実に起こる事例にどう応用するか考えられるように、と意識している。